27 心の氷

27 心の氷


蓮のお母さんが運ばれたのは、あの『東城総合病院』だった。

気にすることはないと言われても、一人で部屋へ戻る気にはとてもなれず、

私は電車に乗り家路へ向かう人の波を避けながら、救急センターへ向かう。


「すみません……広橋節子さんなんですが」

「院内に入られる方は、こちらに記名して、ワッペンをつけてください」

「はい……」


急いだからだろうか、それとも気持ちが乱れているからだろうか、

自分の名前と住所を書く手が、震えていうことを利かない。

エレベーターで言われた通りの階で降り、気持ちを落ち着かせながら前へ進む。


「蓮……」

「敦子……」


蓮は手に書類を持ち、私に笑顔を見せた。

こっちへ少し早足で近づき、ただ立っている私をしっかりと抱き締めてくれる。


「ごめん心配かけた。大丈夫だよ、入院するけど命に別状があるわけじゃないんだ。ただ……」

「ただ?」

「あの日から、実は部屋に閉じこもっていて、ろくに食べてもいなかったから、それで……」


蓮のお母さんは、私と会ったあの日から、お父さんと蓮に顔を合わせることなく、

昼間は部屋からほとんど出てこなかったということを、この時初めて聞いた。

栄養のバランスが崩れ、貧血を起こし倒れたこともあり、救急車で運ばれた。


「今、父さんと一緒に病室にいる。もう点滴もしたし落ち着いてきたから、だから大丈夫だよ。
電話をした時は、運んですぐだったから、あんなふうになってしまって、ごめん」

「ううん……私が甘かったの。許されたわけでもないのに、
お母さんの悲しみをどこかに置き去りにしていた」


あの日、私のところへ行ってしまった蓮に、お母さんはどんな想いを持ったのだろう。

幸さんが父を慕っていたことを、寂しく感じていたはずなのに、

蓮を自分の方へ引き寄せ、私は無意識に父と同じことをしてしまったのかもしれない。


「ごめんね、蓮。あの日、私がわがままを言ってしまったから」

「そんなことないよ。僕だってそうしようとしたんだ。敦子の責任じゃない」

「でも、もっとお母さんの辛さを理解しないといけなかった。つい……」


カツンカツンと廊下に足音が響き、階段の場所から、お父さんが姿を見せた。

私はソファーから立ち上がり、申し訳ないという気持ちを込めて、頭を下げる。


「敦子さん……わざわざ来てくれたんだ。仕事の後なのに、申し訳ない」

「いえ……お母さんは……」

「今は落ち着いているから、もう、大丈夫ですよ。
馴染みの看護師さんに、無茶なことをするなと怒られてました」


そう言えば、初めてここで会った時も、蓮のお母さんは看護師さんと、

仲良さそうに話していた。時折、明るい笑顔を見せ、そしてユーモアのある人だった。


「蓮、敦子さんと一緒に行きなさい。病院には父さんが残るから」

「いえ、私は帰ります。様子だけうかがえたらそれで……」


蓮を連れて行こうなんて気持ちは、全くなかった。

そんなことをしたら、それこそ私は非情な人間だ。


「本当なら、来てくれたことを報告しなければならないんだろうけど、今は……」

「わかっています」


もう一度お父さんにしっかりと頭を下げて、私は駅まで送るという蓮と、一緒に病院を出た。


「父さんがさ、考えがあるってそう言うんだ。母さんがずっと部屋から出てこなくて、
ろくに会話もしなかっただろ、まだ、具体的にどういうことなのかは聞いていないんだけど」

「お父さんにお任せしよう……蓮。会うたびに、私に対して優しい目を向けてくれるもの。
きっと、何かいい考えがあるんだと思う」

「あぁ……」


しっかりと手をつなぎ、まっすぐに歩き続ける。

信号が赤になり、最後の横断歩道の前で歩みを止めた。


「赤信号じゃ進めないけど、いつかは青になるからさ。
あんまり、この赤の色だけを心に残すなよ」


お母さんが倒れたことを、私が気にするのではないかと、蓮は間接的な表現を使い、

そう教えてくれた。この手のぬくもりがあるのなら、何度赤信号で止められても、

私は前を向いて進んでいける。そう思いながら、駅のホームに入っていく電車の姿を見続けた。





お母さんの入院生活は、蓮と菊川先生から私の耳に届けられた。

お見舞いをしたいのはやまやまだが、とてもそれを言い出す勇気はない。


「心臓の数値も安定しているし、もうすぐ退院できそうよ。
看護師さんや担当の先生に怒られて、節子も反省するでしょ」

「反省だなんて……」

「稔さんがね、退院したら少しゆっくりと旅行をするんだってそう言ってた。
ずっと、仕事、仕事でろくに家族サービスもしてこなかったから、
これからは節子と一緒にいられる時間を大事にするんだって」

「旅行へ?」


菊川先生が話してくれた話ことを、その夜、研修から戻った蓮からも聞くことになった。

蓮はスーツ姿にもすっかり慣れ、ネクタイを外すとテーブルに置く。


「二人の時間を持たせてくれって、そう言っていた。
とにかく、日本の景色が綺麗な場所を巡りたいんだって。
今は冬だから、まずは温かい九州へ行くって、そう言っていたけど」

「九州にはいい温泉とかたくさんあるから、お母さんにはいいのかも」

「あぁ……。父さんがそう言ったらさ、最初は文句を言っていた母さんも、
行くことにしたって看護師さんに言ったらしい。
こっちには不満そうな顔しか見せないくせに、本当は嬉しそうだったって」

「それはそうよ……夫婦水入らずで旅行でしょ。1週間も……」


私はふと、田舎で年を取った祖母と暮らしている母のことを思った。

父が生きていたら、母だって一緒に旅行へ行き、その土地の美味しいものなどを食べ、

温泉に入ったりしながら、娘や孫のことを語ったに違いない。


「敦子……やかん」

「あ……」


吹き出しそうになっていたやかんの火を止め、私はポットのふたを開けると、

ゆっくりと中へお湯を入れる。温かい湯気が頬をかすめ、部屋の空気を動かした。





お母さんは無事に退院し、何度か担当の先生に診察を受けた後、お父さんとの旅行へ出かけた。

あの日、私と会った後、家族を無視するように過ごしていたが、

その後、私達の交際について語ることはなく、

この旅行期間中、蓮は私のマンションから研修に通っている。


「起きて、蓮! 時間!」

「うーん……」


眠たそうな目を軽く叩き、蓮はベッドから落ちるようになりながら、なんとか起き上がった。

まるで新婚生活の予行練習のような日々に、自分たちの置かれている状況を忘れたように

私は楽しくなる。


「ちゃんと朝食とってよ。研修中にお腹がグルグル鳴っているなんて、恥ずかしいからね。
それに、頭の回転も悪くなるんだって、この間、何かの番組で言っていたもの」

「あぁ……」





仕事を終え、菊川先生の料理教室へ行くと、

お母さんが昨日、熊本から連絡を寄こしたのだと楽しそうに教えてくれた。


「なんだかね、声が少し高いような気がしたわ。
もう、子供の事なんてどうでもいいわ! ってくらい、楽しんじゃってくれたらいいのにね」

「そうですね……」


私は残ったお皿を拭き終えると、棚へ全てを入れた。

菊川先生はお茶でも飲まないかと誘ってくれ、私はエプロンを外す。


「ねぇ、敦子さん。私ね、節子が戻ってきたら、ここのアシスタントを頼もうと思ってるのよ。
まぁ、受けてくれるのかどうかはわからないけど」

「アシスタント……ですか?」

「そう、教室の生徒さんも嬉しいことに増えてくれて、正直、一人で全てを見るのは大変なの。
節子なら、料理の腕も問題ないし、気心も知れているし……それに……、
あなたを見てもらうことが出来る」


菊川先生は、私のありのままの姿をお母さんに見せたいのだと、そう語ってくれた。

『園田先生の娘』という枠から出て、垣内敦子自体を評価させたいのだと付け加える。


「何も緊張なんてする必要ないのよ。あなたはあなたのままでいい。
どうせ時間をかけるのなら、少しずつでも進歩しないとね」


私はその意見に頷き、もしかしたら来るかも知れない日々に、大きく深呼吸をした。





「上司になる人がさ、将棋が好きで、何でも将棋に置き換えるんだ。
今からでも父さんにしっかり教えてもらっておくかな……」

「へぇ……蓮でも、人に合わせるんだ。嫌ならやりませんって言うのかと思ったけど」

「そんなこと言えるのは、なかなかいないって……」


その日の夜も、蓮は当たり前のようにマンションに訪れ、

私が夕食の準備をしている側で、テレビを見る。

インターフォンが鳴り、蓮は返事をすると、私の代わりに荷物を取りに行った。


「敦子、サインしてもいいの?」

「あ、横の小さなカゴに印鑑があるから、それを押して」

「あ……これか」


引き取った荷物は、田舎の母からだった。時々いただいた野菜やお米を、私宛に送ってくれる。

蓮とのことがあって、しばらく連絡すらしていなかったが、

何か手紙でも入っていないかとダンボールのテープをはがし、中を見た。


「おぉ……立派なカボチャだ、それに米も入ってるよ」

「うん……」


手紙は何も入っていなかった。それでも、母の気持ちは痛いほど私に伝わってくる。

いつもの量より、野菜やお米が明らかに多い。


許さないと言いながら、ここに蓮がいることを感じている母の、言葉にならない思いなのだろう。


ほんの少しだけ溶け出した心の氷……。


母が送ってくれたカボチャの上に、私の涙が一粒落ちた。





28 時の砂 へ……




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コメント

非公開コメント

赤信号、少ないといいな

こんにちは!!

蓮くんのお母さん、心臓悪いの籠城(?)してたとは・・・
死んじゃうよ、てか死んでもいいくらいに思ってたのかな
籠ってた間に少しは気持ちの整理が・・・つくわけがないか


2人の新婚予行演習は幸せそうだね

すこーしずつ山も、壁も、氷も超えて解けてきたようですが
これからも焦らず、じっくりと向き合って・・・
早く、予行演習を現実にしてあげたいけど
時間をかけて行かないとダメなんですよね

その時は辛かった分、みんな思いっきり幸せになって欲しい
     
      では、また・・・e-463 

蓮の母

mamanさん、こんばんは!

>蓮くんのお母さん、心臓悪いの籠城(?)してたとは・・・

どうなるかというよりは、心の整理がつかなかったというべきなんでしょうね。
蓮の顔を見たら、思い出してしまうし……素直に認められないし……。

18年の色々を、どうにかしないとならないんですけど、
その解決の糸口は、どこにあるのやら……です。

>その時は辛かった分、みんな思いっきり幸せになって欲しい

はい、そうなるように、頑張ります!

親と子の気持ち

yokanさん、こんばんは!

>蓮お母さんの心の氷も溶け出してくると良いですね。

ねぇ……。誰でも親は子供の幸せを考えていると思うんですけど、抱えていたものが大きいだけに、バランスは難しいところです。

>しかし、お母さんがいない間に予行演習か~、そんなことしていいのかな~、

あはは……だめ?(笑)