8 後悔 【8-5】


【8-5】


「ありがとうございました」


予定外のものを一つ購入した伊吹は、会計を済ませ、2つの袋を受け取ると外に出た。

まっすぐ車に向かうつもりが、視線は『Breath本社』の玄関に向かってしまう。



『こんなことをするな……帰れ』



あの5月の雨が降り続いた別れの日、

『この世の中で一番嫌いな男になる』と決めた、あの日以来の再会だった。

辛くて苦しい数日間の雨がやんだあと、就職を決めて家族に喜ばれた夏も、

父親の仕事が手伝えるようにと『クリーニングの講習会』に出かけた秋も、

卒論のために、何度も図書館に通った冬も、

伊吹にとっては、二度と経験したくないくらい、冷たく色のない日々だった。

誰もいなくなった土地が、新しく変わることを喜ぶ商店街の人達と、

その場所を追いやられ、寂しい思いとした人達と、

さらに『仕事への復帰』だけをリハビリの力にしていた父親。

何も知らずに、明日がまた無事に来ることを祈る母と妹。

その、のしかかる重圧に、伊吹は自分の明日が飲み込まれそうになり、

あまりにも唐突すぎた別れの時間を作った、幼稚な自分自身を責めてみたが、

だからといって、時を戻すことは出来ず、ただ前を向くしかなかった。



『泣いていた……』



宗佑が言うように、誰にも本心が言えなかった伊吹は、

たった一人、心の傷を受け止めていくしかなく……

せめて、あの人が幸せになって欲しいと願いながら、この8年を過ごしてきた。



伊吹は『Breath』に背を向け、配達の車に戻る。

助手席にパンの袋を置くと、エンジンをかけようとしたが、

伊吹の目は、また『Breath』の本社の方を向いてしまう。

8年前とは違い、風は社会人になっている。

あの時、自分に別れを迫った男の話通りならば、すでに嫁いでいるのだろう。

この建物の中で、どんな仕事をしているのかと、

いくら目をこらしてもわかるはずのない思いが、伊吹の中に広がり、

出発すべきだと思うのに、視線を外す決心がなかなかつかなくなる。



『風には、きちんと決まった相手がいる……』

『大学を卒業して、数年後には結婚する』



伊吹はこの言葉を頭の中で何度か繰り返し、巡る思いを断ち切るように、

右手で車のエンジンをかけた。





「すみません、遅れました」

「いや、そんなことはいいけれど、森嶋さんは大丈夫だったの?」

「はい。私は巻き込まれていないのですが、ちょうど斜め上に立っていた男性が、
突然後ろに立っていた女性を押したことで、将棋倒しになってしまって」

「後ろの女性を?」

「はい」


風は営業部の部長になる杉田の前に立ち、遅れた事情を説明した。

『三国川』の駅の階段を、通勤する人達が並んで上がっていた時、

ほとんど到着するような状態の男が急に振り返り、

後ろに立っていた中年女性を押したため、

そこから将棋倒しのような状態が起きてしまった。

ニュースにもなった事件は、学生やサラリーマンなど、

10名ほどが怪我をして病院に運ばれる。

風自身は巻き込まれなかったのだが、男性が女性を押した瞬間を見た数名の客として、

警察からの事情聴取を受けることになってしまった。


「押したのと押された人は知りあい?」

「いえ、おそらく違うと……。私も細かく見ていなかったですけど、
会話の声はなかった気がして」

「うわぁ……そうなると通りすがりか、えらい迷惑だな」

「そうですね、ものすごく細かいことまで聞かれていて、気づいたらこんな時間に……」


風は壁にかかる時計を見る。


「いやいや、森嶋さんに怪我がなくてよかったよ」


杉田部長はそういうと、ほっとした笑みを浮かべる。

風も『ありがとうございます』と返事をしたあと、軽く頭を下げた。



風が、部長の杉田に遅れた事情を語っている頃、

伊吹は『梶木原』に向かう道の途中にいたた。

FMラジオからは、リクエストされた曲が流れ出す。

あまり音楽に詳しくない伊吹でも、少し口ずさめるような曲がかかる。

伊吹が大学生の頃、流行ったドラマの主題歌。

少し前、風を見かけたことを、そんなことからまた思い出した。



大学3年の夏、伊吹は長野県で『収穫バイト』をした。

伊吹が世話になった『木村家』は、その中でも大きなレタス農家になる。

1ヶ月、用意してもらった施設に泊まり込み、畑で取れるレタスを収穫して選別、

さらに配送までを手伝うのが仕事だった。

地方の農家も、跡取りなど手伝ってくれる人材が減ってしまい、

こうした学生たちをあてにすることも多くなっていている。

冬に向け、少しまとまったお金が欲しいと考えていた伊吹は、

学業を考え、この時期に東京を離れることにした。

冬にはクリスマスがあり、伊吹は風と美味しいものを食べて、

素敵なホテルに泊まるような、少し大人びたデートをするための、

資金作りを頑張っていたからだ。

東京と違い、何もない田舎町で見る星空は、どこよりも美しかったし、

まだ夜明けとも言えない時間から働いた後、太陽の光りと朝露の輝きに、

レタスの綺麗な緑が映えた景色は、伊吹にとって『生命』を感じるもので、

伊吹は写真を現像し、それを葉書として利用する。

こんな景色を、『風に見せたい』と思い、手紙を出した。


それから数日後、仕事が休みになった伊吹は、

麦わら帽子姿の風を、大きな木のそばで見つけることになる。

風は伊吹を見つけると、嬉しそうに手を振り走ってきた。



『風……』

『会いたいから来たの』



家からの距離と、今いる場所の不便さを考えると、

再会の時間など2時間程度だったが、風は嬉しそうに話し、笑い、

そして伊吹にキスをした。



伊吹はFMラジオを切ると、交差点を曲がり近藤さんの住む団地に入っていく。

その車の音を聞き、伊吹の到着に気づいた近藤さんは、窓を開け手を振ってくれた。


【8-6】



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