10 反対側 【10-4】


【10-4】


風は、営業部の自分の席に戻り、残りの仕事を再開させたが、

数字はどれも丸と直線の情報しかこちらに与えてくれず、頭は動かない。

とても集中して取り組める状態ではなかった。

データを見ながら追っていた指はいつの間にか止まり、

そこから動くという命令を忘れたようになる。

時計を見ると、あと10分程度で終業時間になる。

こうなったら、仕事をしているふりだけしておこうと考え、両手をキーボードに置いた。


『沼田さん……』


頭の中に出てくるのは、伊吹がどれくらいの期間ここに姿を見せるのかということで、

風は携帯を持ったまま席を離れ、悠真にラインを送る。



『悠真、今日会えない?』



伊吹を見かけ、そこから逃げ出した風は、気持ちを静めるため、

悠真と時間を過ごす方法を考えた。

悠真と話をしていれば、触れ合っていればきっと、気持ちも落ち着く。

そう思っての行動だったが、悠真からは『今日は無理だ』とすぐに返事がある。

仕事が立て込んでいるという内容に、風も『わかった』と返信した。


携帯を握りしめていた風が、廊下の窓から外を見る。

昼間には晴れていた空が、この1時間くらいの間に急に黒い雲を集めてきて、

それから数分後、雨を降らせ始めた。

ゆっくりというよりも、この季節特有の『突然の大雨』が、窓ガラスに当たり出す。


「うわぁ……降ってきたよ」

「エ……やだ、傘ないよ」


営業部内からも、突然の大雨に驚く声や、嘆く声が出始めた。

風は、雨の強い音を聞き続ける。

この1時間くらいの記憶や事実が、全て流されてしまえばいいと思い、

息を吐くと、風はもう一度携帯で悠真の番号に合わせ、

時間は遅くてもいいから、なんとか会える方法を考えて欲しいと、

頼むつもりで文章を打ち始めた。

しかし、その速度はだんだん落ちていき、やがて止まる。

風は、打ち込んだ文字を消していく。



伊吹と思いがけない再会をし、仕事が手につかないほど慌て、

悠真に救いの手を求めようとしている自分のことが、風は急に惨めに思えてきた。



『沼田伊吹』



8年前の出来事を引き起こした男は、もう、その罪のかけらすら感じていない。



風は、入力した文字を全て削除し、携帯をバッグに押し込んでいく。

『Breath』という企業名、仕事相手が『森嶋昴』という名前、そしてこの本社。

これほどまでに揃っている場所に、相手は自ら乗り込んできていた。

自分が風にしたことを、申し訳ないと思う気持ちがどこかにあるのなら、

再会するような状況を、自ら作るはずがない。

風はあらためて席に戻り、PC前に座る。

相手からは『どうでもいい存在』になっている自分。


『また負けたくない』


風は、その気持ちを胸に必死に前を向き続け、データを入力する。

雨の音も、同僚が帰り支度をする気配も聞こえなくなるくらい、

しばらくキーボードを叩き続けた。





「すみません畠岡さん。自分で決めたことなのに……」

「いや、いいよ、話を聞くから」


風からラインを受け取った悠真は、目の前で泣き出したくるみの話を聞くために、

どこか話せる場所を探していた。

突然の雨を見ながら、涙を浮かべているくるみを見る。


「畠岡さんしか……私、相談できる人がいなくて……」


くるみの肩を軽く叩き、悠真はタクシーを捕まえる。

二人は揃って乗り込むと、タクシーはすぐに動き出した。





「ただいま……」

「おかえり……ってどうしたの伊吹。あんたびしょ濡れだけど」

「傘、なかったから」

「いや、ないって……傘くらいコンビニでも買えるでしょう」


『Breath』を出た伊吹は、自分から逃げていく風を見送った後も、

しばらくその場に立ち止まっていた。

風が営業部にいることもわかっているのだから、

こうなったらもう一度中に入り、

あの日のことも全て話してしまおうかという衝動に足が数歩動いたが、

相手のテリトリーとも言える場所で、身勝手に動くことは避けた方がいいと思い、

そのまま家に戻ることにした。

頭の中はほとんどが『後悔』の感情を広げていたため、足はなかなか前に向かわず、

伊吹が『柴橋中央公園』に入る頃には、大雨になってしまったがそのまま歩いた。


「伊吹、ほらタオル」

「うん……」


仕事初日とも言える今日、あと、数分早く『Breath』を出ていたら、

会わなかったかもしれないタイミングだったが、現実は風と会ってしまった。

風の戸惑った表情を見た後、伊吹は青柳の代わりに仕事を受けたことを

心の底から後悔した。これほどまでに重苦しい気持ちになるのなら、

樋口に全てを話し、別の人を送ってもらった方がよかったと考えてしまう。

しかし、動き出した以上、自ら『やります』と返事をした以上、

ここからの変更は出来ない。



『明日』もまた、あの場所に行く。



『明日』が来ることが、これほど怖くなるのもまた、あの別れ以来かもしれない。

伊吹は、大雨に打たれ、自分勝手な思いを流してしまいたいと考えたが、

現実は何も変わらないまま、ただ濡れた自分だけが家に到着した。


【10-5】



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