32 春の訪れ

32 春の訪れ


今年の春は、思ったよりも早く訪れたようで、

いつもなら寒くて起きにくい朝の目覚めも、近頃はスムーズに進む。

私は朝食を済ませ身支度を整えると、職場へ足を向けずに大学へ向かった。

お世話になった雪岡教授が定年を迎え、学校を去る日が近づいたからだ。


「おぉ、敦子」

「こんにちは、うわぁ……いつにもまして本が多いですね。座るところはありますか?」


雪岡教授の部屋は、すでに明け渡す準備を進めているからなのか、

棚に入っていた本が下に置かれ、私が踏み居ることを拒絶するように床を占領する。

頼まれて書店まで注文しにいった専門書が、一番上に乗っていて、なつかしく手に取ってみた。


「座るところがなければ、本の上にでも座っておけ」

「エ……、これは先生の大事な資料じゃないんですか? 昔、雨の中、
書店まで取りに行った記憶がありますけど」


手に持った分厚い専門書を、先生に見えるように押し出してみせる。


「それはカムフラージュだな。これだけ本があれば、仕事をしているように見えるだろ。
何事においても、見栄が大事だ、わかるか? 敦子」

「何言ってるんですか、もう」


雪岡教授はそう言うと、豪快に笑い始めた。いつもこうして軽く会話を交わすが、

先生の研究熱心さは業界でも有名で、亡くなった父の友達でなければ、

これほど親しく出来たかどうかも疑問なくらいだ。


「広橋は仕事、順調か?」

「はい、後輩の……えっとお名前」

「田本……、田本幸平」

「あ、そうでした。田本君とも時々、社内で会うみたいですよ。
しっかりしているってほめてました」

「そうだろう……。あいつも真面目でいい男だぞ」


私は手土産として持ってきた焼き菓子を机の上に置き、入っていた紙袋を軽くたたむ。


「いつものジャムパンをと思ったら、あのお店、なくなったんですね」

「あぁ、ご主人が亡くなったんだ、年末に。奥さんは続けたかったようなんだが、
体も強くないし、息子さんたちにも反対されて、これをきっかけにと店をたたんだ。
寂しい気もするが仕方がないな」

「そうだったんですか……」

「ちょうど私も定年で、ジャムパンファンの雪岡教授がいなくなるのも、
そのタイミングでしょうと笑っていたよ」


こうしてゆっくりと大学を訪ねるのは、久しぶりのことだった。

以前、勤めていた時とは事務局のメンバーも代わっていて、

私のことを覚えてくれているのも、事務局長と数人だ。


「どうだ、お前たちは今年くらいなんとかなりそうか」

「年末に、母が許してくれたことで、私はずいぶん気が楽になりました。
広橋のお父さんもそのことをとても喜んでくれて、お母さんにも伝えてくれたそうです。
でも、振り回された結果だとはいえ、お母さんはウソをついてきたことを気にしていて、
私や母が、今でも自分のことを憎んでいるだろうという思いが……なかなか……」


私が当時のことを何も聞かされてなかったこと、だから、お母さんに対しての想いも、

憎いという感情ではないこと。自分たちが付いているから、

一緒に一歩踏みだそうと誘っていることを、蓮から聞いた通り先生に説明する。


「蓮は、様子を見ながら話をしてくれているようです。私の話をしても、
前みたいに怒ったりすることはないみたいなんですけど、まだ、具体的にどうこうって話は……」

「そうか、愛子さんが気持ちをほぐしたことは、プラスになっているはずなんだがな。
広橋家の方が、傷が深いんだろう」

「そうだと思います」


あまりこのことばかりを聞くのは悪いと思ったのか、それから雪岡教授は別の話をし始めた。

1時間くらいの予定で出かけた大学だったが、気が付くと太陽は西に傾き始め、

その日の予定はすっかりずれた。





「雪岡教授も定年だもんな、電話では話したんだけど、なかなか大学へは顔を出せなくて」

「仕方ないわよ、そんなことで怒り出すような人じゃないし、
また、落ち着いたら食事でもしようって言っていたけど……」

「そうか、そうだよな。僕たちのことも気にしてくれているだろうし」

「今の状況は伝えておいた。頷きながら聞いてくれていたけど……」


暦は4月を迎え、姉に2人目の子供が生まれた。繭は妹の誕生に戸惑いながらも、

嬉しそうに病院へ顔を出すのだと、手伝いに向かった母から報告を受けた。

今日は蓮と待ち合わせをして、私達も病院へ顔を出すことにする。


「蓮だ!」

「蓮だじゃないでしょ、蓮君でしょ」


病室へ顔を出したとたん、嬉しそうな繭の声が響き、

蓮はその場で腰を下ろすと、近寄ってきた繭の頭をなでている。


「いいんですよ……。久しぶりだね、繭」

「うん!」


繭は嬉しそうに蓮の手を引き、姉に抱かれて眠っている赤ちゃんの前に連れて行き、

自分の妹なのだと自慢げに語り出す。

焼き餅を焼いていたはずなのに、急に態度を変えるのは、おしゃまな繭らしい。

そんな様子をほほえましく見つめる母に気づき、蓮はしっかりと頭を下げた。


「すみません、僕までずうずうしくここへ」

「いいえ、繭が蓮君に会いたい、会いたいってうるさいらしいの」


自分のことを悪く言われていると思った繭は、

小さな頬を精一杯膨らませて母のことを軽く叩く。

そんな態度を、隣で見ていた義兄が怒り、繭は蓮の後ろに隠れると舌を出す。


「こら、繭。何してるの」

「いいの!」


義兄と繭に挟まれ、戸惑う蓮の顔がおかしく、つい笑ってしまう。

垣内家の中では、蓮はすっかり馴染んでいるようだ。


「ねぇ、敦子、抱っこしてあげて」

「……うん」


ほやほやの命は、姉の元を離れ、私の腕の中で小さな寝息を立てた。

力いっぱい握られた手は、時々ピクンと動き、生きていることを訴えかける。


「かわいい……。繭もこうだったよね」

「そうよ、今じゃ生意気だけど。ねぇ、蓮君も抱いてみて」

「エ……」


思わぬ展開に蓮は私の方を見た。ちょうど姉を挟んでいる形になり、

どう手渡そうかと思っていると、隣に立っていた母が、私から赤ちゃんを受け取り、

蓮の元へ移動する。


「たくさんの人に抱っこしてもらったら、幸せになるんだって」


母の差し出した赤ちゃんに、蓮は少し不安な表情で手を伸ばす。

隣に立っていた義兄が、抱き方や手の位置を横で軽くアドバイスした。


「軽いですね……」

「だろ……驚くくらい軽いんだけど、僕の責任は重いんだ」

「あ……そうですね」


蓮を見つめる母の顔に、そして私たちを応援し続けてくれた姉夫婦の顔に、

私は背中に受ける日差しのような、温かい気持ちになった。





桜はあっという間に散り、料理教室にもまた新顔が入った。

私が何も知らずに蓮のことを語ったおたまを使った自己紹介は、今年も相変わらず続く。


「垣内さん、あとひとつ取ってくれる?」

「はい……」


その問いかけにすぐ手を伸ばした後、遅れて気づいた私の心臓が、

急にスピードを上げて動き始めた。声をかけてくれたのは間違いなく蓮のお母さんだ。


「これでいいですか?」

「あ、だいじょうぶだと思う……ありがとう」


ありがとう……。


その一言が、私の中に、そう、確かに染みていく。

この言葉がこれほど嬉しく感じることはなく、自己紹介を聞きながらも、

私の心は別の想いで満ちていた。





「へぇ……そうなんだ」

「そうなの。それからはね、何回か質問に答えてもらったりもしたし、
さようならって、お母さんの方から挨拶してくれたり……」

「うん……」


私はお母さんと小さなコンタクトを取った日には、蓮に必ず連絡をした。

料理がおいしく出来ることより、仕事がうまく運ぶことより、

今の私にとっては、何よりも嬉しいことだった。


「僕の前でも料理教室のことをよく話すよ。敦子がどうのってことは直接言わないけれど、
きっと、あの場所にいることが楽しいんだと思う」

「そう……」





そして、そんな日々を続けていたある日……。


「週末に? いいけど、どこに行く?」


蓮からいつものように電話があった。週末にまた食事をしようという誘いで、

たまには美術館でも行ってみようかと問いかえすと、意外な答えが返ってくる。


「うちへ来て欲しいんだ」

「うち?」

「うん、うちへ招待したいって、母さんが……」

「お母さんが?」


聞き間違えては困ると、私はもう一度蓮に問いかけたが、

間違いなくお母さんが私を呼びなさいと言ってくれたようで、

嬉しい反面、不安な気持ちがまた顔を出し始める。


「身構える必要なんてないよ。君がどういう人なのかは、1年くらい見続けてきてるんだ。
敦子は敦子のまま、ここへ来てくれたらいい」

「うん……」


長い間、この日を待っていた。小さなこの部屋で蓮のことを想いながら、

彼が帰っていく場所へ、自分も一緒に行けることを夢見ていた。

そして、その日がやっと訪れた。


「僕がついてるから……、心配しないで」

「うん……」


蓮のその一言が、とても心強くて、私は震える手を押さえながら、小さく頷いた。





町の緑は青さを増し、若葉の匂いをさせる。

鳥は楽しそうに歌い続け、花は心に光をくれる、そんな日。


私は、初めて広橋家を訪れた。





33 君に奏でる愛の詩 へ……




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コメント

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深い~スイッチ

  こんにちは!!

 寒い冬が過ぎ、温かな明るい日差しの春の訪れとともに
敦子さんにも温かな春の喜びが訪れたみたいで、よかったですね

雪も待ってれば融ける(まぁ、生活に邪魔な分は片づけるけど・・)
敦子さんと蓮君達はただ待ってたわけじゃないけど

蓮君母も心の整理がついたのかしら・・・
焦らず、諦めずに待ってた甲斐がありましたね

敦子さんのお姉さんの病室のとこがよかったなぁ
お義兄さんの「驚くくらい軽いんだけど、僕の責任は重い」の言葉に
心の≪“深い~”スイッチ≫を押しました


      では、また・・・e-463

深いスイッチ

mamanさん、ふたたび

>敦子さんにも温かな春の喜びが訪れたみたいで、よかったですね

長かった二人の道のりですが、ようやく明るい光が差してきたようです。

>お義兄さんの「驚くくらい軽いんだけど、僕の責任は重い」の言葉に
心の≪“深い~”スイッチ≫を押しました

深いスイッチ……押せて嬉しいな。
セリフをほめてもらえると、とても嬉しい私です。

次回が最終話、ぜひ、最後までおつきあいお願いします。

光の先には

yokanさん、ふたたび

>ああ~、春だね~二人をずっと見続けてきたので、今回の展開にウルウル(TT)

ありがとうございます。
読み続けてくださった方は、みなさんそう言ってくれて……。

光の見えてきた二人。
次回が最終話です。最後まで見守ってやってください。