ゴールの風(前編)

ゴールの風(前編)




『バツイチ』



世間ではこの言葉をどう感じるのだろう。私はその『バツイチ』だ。



社会人になり3年後、友達の紹介で知り合った人と結婚したが、

彼は初めての結婚記念日を祝うことなく、

どうしても昔の彼女を忘れられないなどと言いだし、不倫のあげく家を飛び出した。


もちろん、精神的な打撃分の慰謝料はもらったけれど、

私の心と戸籍には、しっかりと傷が残される。


それでも、そんな理由を他人に一から語ることなど出来ず、

ただ『バツイチ』という枠でくくられ、職場でも噂だけが一人歩きした。





『女だてらに研究室勤務だもんな、かわいげがないんだよ』


『強すぎるんだろ、美那子さんは』





結婚前から勤めていた職場だったため、離婚をする時に辞めてしまおうかと考えたが、

他にしっかりとした収入を確保できる仕事など、そう見つかるとは思えず、

結局苗字を旧姓に戻し、勤め続けている。




結婚するときは勝ち組だのとうらやましがった後輩も、今じゃ一人、二人と減り、

私の今しか知らない人達ばかりでは、評価はすっかり負け組だった。









春になり、人事部の異動が発表され、研究室管理担当者に広島から岩村君がやってきた。

彼はうちの企業が持っているサッカーチームの所属で、昨年まで現役選手だったが、

引退し、今では普通にサラリーマンとなったらしい。


スポーツに興味のない私は、彼の輝かしい姿など知らないが、

ファンだったという後輩は、同じ建物で仕事が出来るのだと、何やら嬉しそうに語った。









「失礼します」


そんなある日、私が一人研究室に残っていると、突然、岩村君が姿を見せた。

立場的には私達を管理する側だから、『君』付けはないのかもしれないが、

年齢は私の方が3つ年上なので仕方がない。



「まだ残っているんですか? 渡瀬さん」

「もう、帰ります。今、ちょっと動きがありそうだったので」

「動き?」



彼はふらりと研究室の奥へ入ってくると、

私が少し前に使った顕微鏡のレンズをのぞき込んだ。



「何もないですけど」

「もう、そこにはないんです。今、こっちへ……」



全体を見ていたものから、より細かい状況を知るためにこちらへ移動したことを告げると、

岩村君は見てもいいですか? と私に問いかけるので席を譲る。


ある程度まで育てあげ、温度、湿度がしっかり管理されていると、

時間的に同じ感覚で成長を続けていく。


製品の品質を保つためには、こういった規則的な成長が必要になるのだと、

顕微鏡をのぞき込んだままの岩村君に、私は説明を続けた。

しかし、彼は人の話を聞いているのかいないのか、何やら笑い出す。



「お、すごいなこいつ。この素早い動きはロナウジーニョクラスかもしれない」

「ロナウ?」



私の脳裏に、一瞬菌が勢いよく走っていく姿が浮かんで消えた。

それにしても、そんな名前の菌は、聞いたことがない。



「ロナウジーニョって知りませんか? ブラジルの有名なサッカー選手なんですよ。
ドリブルもうまいし、あ、ほらほら、まっすぐに突進しているじゃないですか」

「ドリブル? それはドリブルじゃないですよ。
分裂するために引き寄せられているんです」

「分裂?」



その後も、風格があるのは『マラドーナ』だとか、岩村君のたとえは全てがサッカーで、

全くわからない私とは、どう考えても会話がかみあわないのだが、

そんな互いに勝手なやりとりでも、時々こちらの言うことを、

とても興味深く聞く姿勢が心地よく、気がつくと時間は20時を示す。



「渡瀬さんは、お酒を飲むのが嫌いなんですか?」

「エ……」

「飲み会しようなんて言っても、一度も来てくれたことがないし、
僕の歓迎会って題名をつけたあの日も……」

「あ……」



誰かが研究室に残らなければならなくなり、その場の雰囲気から、私が手を挙げたのだ。

後輩達は、岩村君と話せることを期待し、舞い上がっていたのだから。



「そうか、よかった。僕はすっかり嫌われているのかと思ってました。
あれから6年経ってますからね」

「6年……って」

「憶えてませんよね、それはそうですよ。僕が新人で本社に来た時、
サッカー部全員集まった席で、頑張って下さいと花束をくれたのが、たしか……」







遠い、遠い記憶の奥から、私はその時のことを思い出した。

当時は結婚したてで、彼からの『まだなのコール』が鳴る中、

早く会を終わらせたいと何度も時計を睨んだのだ。



そういえば、誰かに花束を渡し、遠征に送り出した。



「あの時は……小山内さんってたしか……」



そうか、あの時の短髪君は、岩村君だったことを思い出し、

私の目は自然に彼の髪の毛へ向かった。



まだニキビがあったあの頃に比べたら、おしゃれになった気がする。



「私、『バツイチ』なんです。まだこうして会社に残って仕事をしているんですけど」



旧姓まで覚えられていては仕方がない。『バツイチ』であることを説明し、

また押し寄せてくるであろう、力の抜けたような視線を待つ。



「あ、そうなんですか、でもよかったです、僕はまたお会いできて」







『バツイチ』という言葉を、簡単にスルーされたのは初めてだった。

それまでスムーズに会話が進んでも、この言葉を出すと一瞬眉毛を寄せる男性が多い。



まぁ、岩村君にしてみたら、年上の私など、はなから問題外なのだろうが。



「来週の水曜日、スタジアムで試合があるんですよ、一緒に行きませんか?」

「誰とですか?」

「もちろん、僕とです」



彼の大学時代の友人が、ケガから復帰した試合が来週行われるのだと、

岩村君は言い始めた。私はサッカーなど興味もないし、

見に行く時間もないと断ったが、彼はおかまいなしに話し続ける。



「本当に見たことないんですか? サッカーとか野球とか。
だいたい、小さい頃テレビで見ていると思うんだけど」

「うちは親が好きじゃないので」



そう、父は厳格な人で、仕事から帰ると書斎にこもりほとんど読書の日々だった。

お父さんが家に居るときは静かにしなさいというのが母の口癖で、

女は男に従うべきという信念を持った父は、私が小山内と別れると言った時も。





『お前が女として未熟だからだ』





そう言って、冷たい目を向けた。悲しい時に悲しいことを言われ、

それ以来実家が遠くなり、もう、何年も足を踏み入れてはいない。



「じゃ、来週、一緒に行きましょう!」

「いえ、岩村君、あの……」

「僕のことを忘れ、しかも歓迎会にも来てくれなかったバツですよ。
いや、スタジアムに行けば、きっと楽しめますから」

「でも……」

「渡瀬さんに必要なものが必ずあります。僕を信じましょう!」





その彼の強い言葉に、私はそれ以上何も言えなくなった。





今の生活に満足しているわけではない。

どこか寂しく、どこかもがいていることも事実だった。





『私に必要なもの』が、本当にスタジアムにあるのなら、それを探してみたい……





そう思った。









「何ですか? 聞こえないんですけど」

「一緒にジャンプするんですよ、ほら、他の人達みたいに」

「エ……どうして跳ねてるんですか?」

「みんな色々と頑張りたいことがあるんです」



初めて行ったスタジアムでは、その広さと観客の熱気に驚かされた。

鳴り響く太鼓や笛、チャンスになった時の押し寄せるような歓声に、思わず体がすくむ。



「行けェ! 登! かわせ!」



岩村君はすっかり気持ちで、戦っているように見えた。

そんな真剣な彼の表情を私が見ていると、歓声はさらに大きくなる。



「ゴール! よし、いいぞ!」



黄色いユニフォームの選手達と、同じように黄色いタオルを持った観客達が、

その瞬間一つにまとまった。隣同士どこから来たのか分からない人達と、

握手をしたり、肩を抱き合っている姿が見える。



「渡瀬さん!」

「はい……」



岩村君のハイタッチポーズに私も慌てて手を出した。

両方の手に、力強い男性の手が重なり、大きな音を立てる。



「黄色いユニフォームが僕の友人のチームなんです。
11番の選手、あれが上原登。一緒に応援してやってください」

「あの……どうやって」

「ボールを持ったら、行け! って叫んでくれたらいいんです」



それから何度も上原選手はボールを持ったが、私はなかなか声が出せなかった。

それでも、試合が後半に入り、同点のまま残り時間が減っていく。



「行け、登!」





どうしてなのかはわからないが、ここで声を出さないと、あとからずっと長い間、

後悔するようなそんな気がした。





「い……行け……行け!」





閉じられていた扉が思い切り開くような、よどんだ空気の中に、

外の爽やかな風が入り込むような、そんな気分だった。



一回越えてしまうと、あとは繰り返すことなど何も怖くない。

私も何度も叫び続け、試合は結局、上原選手のアシストで、

別の選手が決めたゴールが決勝点となった。









「スカーッとしました。なんだか久しぶりに大きな声を出して」

「そう、ここで思い切り声を出して、知らない人達と一つになるって楽しいでしょ。
サッカーのルールなんてわからなくても、なんとなく今どんな場面なのかは想像出来るし」

「はい……」

「研究室で、小さい菌達を観察するのも大事なんですけど、
たまには自分自身を解き放ってやったらどうですか? 知らない世界を知ることも、
いいものですよ」






私に必要な何か……






岩村君の言葉で、それがなんとなく、ぼんやりだけど見えた気がした。









「あ……ロナウジーニョ」

「は? なんですか?」

「あ、ううん、ごめん、いいの」



彼が命名した菌、ロナウジーニョは元気に成長を続けている。

私も知らない間に、その菌に話しかけるようになったりして、

時々、研究室のメンバーから、大丈夫だろうかという目で見られることもあった。



『ロナウジーニョ』



その選手がどんな人なのか知りたくて、私は家へ戻ると、

インターネットでその名前を検索した。

彼が世界的に有名な選手で、ものすごい年俸をもらっていることなどがわかり、

そのまま色々とチームのことを調べていると、

社会人コーナーの中に、うちのチームを見つける。





『岩村司』





彼は、右足の靱帯を痛め引退したと記されていて、

この後は、子供達を指導するような立場に立ってみたいと書いてある。




『一つの夢が終わっても、また次の夢がある』




その言葉は私の心の中に、ふわりと風を入れた。









岩村君と試合を見に行くようになってから、私はサッカーに興味を持った。

はじめはルールもわからなかったが、何度かテレビで試合を見ていると、

ポジションの名前や役割も見え始める。





「へぇ……これが他の菌の侵入を防ぐって菌なんですか」

「はい、日本で言えば中澤ですね。しっかりと守っています」

「ん?」



私の切り返しに、岩村君は嬉しそうに笑い、

私達はあのスタジアムでかわしたハイタッチをする。



彼の強い力が、また私の重たい扉を開けてくれたようで、

季節が夏に向かって行くことが、とても嬉しく感じられた。





そして……。





「渡瀬さん、僕とつきあってくれませんか?」





嬉しくなるような言葉をもらったのに、私はすぐ『バツイチ』の呪縛に囚われた。

彼は年下だし、私は離婚経験者だ。

それを告げると、応援ベンチに座ったまま岩村君は何度も首を振る。



「人間生きていたらケガもしますよ。
僕も何度もケガをして、それでも負けるものかって、起き上がってきました。
離婚なんてちょっとした擦り傷でしょ? そこから這い上がれなくてどうするんですか。
それに最初のチームでは芽が出なくても、チームを移籍してトップに立つ人だっている。
そんなこと僕は全く気にしてません」





その言葉を聞きながら、私は嬉しくて何度も頷いた。

『バツイチ』になったことが、全ての終わりのように言われ続けてきただけに、

心の鎖がカチンと音を立て、崩されていくように思えてくる。





岩村君を信じよう……。





私は素直に彼の申し出を受け、新しい一歩を踏み出すことにした。









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コメント

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    こんにちは!!

 大声を出す解放感・・いいよねぇ。出してないなぁ、大声。
子供達も大きくなって叫ぶこともなくなったし・・これは違うか!?(笑)

岩村君はなにかをサッカーに例えるのことが多いのかな。
スポーツやってた人はそんなもんなのかしら?
うちの旦那も野球やってたから結構野球にたとえて話す。
偶にウザイくらい熱く語ったりして・・聞き流してるけど。(爆)
__おっと、得意の脇道に行っちゃった_(._.)_ペコリ

岩村君は花束貰った壮行会の時から美耶子さんが気になってたのかしら・・偶々?

美耶子さんの《ここで声を出さないと(〇〇をしなくては)、長い間、後悔する》に
そういう時あるねと思った。

バツイチ、負け組に囚われていた彼女には
岩村君みたいなちょっと強引なくらいの人が必要だったんでしょうね。

それにしても元旦那、元カノに未練あるんだったら結婚前にいえよ!です!!
美耶子さんが辛かった分、不幸になってればいいのにと
意地悪な事を思っいてる、わたしです。

美耶子さん、岩村君のプロポーズをスンナリ受ける?


     では、また・・・e-463

熱く語る男達

mamanさん、こんばんは!

>岩村君はなにかをサッカーに例えるのことが多いのかな。
 スポーツやってた人はそんなもんなのかしら?

全ての人がそうだとは限らないけれど、何かを一生懸命やってきた人って、
逆にいうと、その知識ばっかりが頭に入っている……という気がします(笑)

うちもどちらかというと野球。
だから、息子も『ウザク語る』タイプ。
(あんまりウザイのはもてないよね)

>岩村君は花束貰った壮行会の時から
 美耶子さんが気になってたのかしら・・偶々?

それは後編で!

>それにしても元旦那、
 元カノに未練あるんだったら結婚前にいえよ!です!!

あはは……。こんな1、2行の男に、
しっかり怒りを表してくれるmamanさんのレス、とってもグッドです。
そうでしょ、でも、実際にいるらしいですよ、人づてに聞いたところ。

では、後編もよろしくです。

サッカー小僧

yokanさん、こんばんは!

>岩村君て、なんて爽やかな青年なんだ~♪

短編ですからね、眉間にしわタイプだと、話が長くなりそうなのよぉ。
まぁ、スポーツに燃えていた男ですから、爽やかに行こうかと(笑)

>瀬さんは岩村君の想い人だったのかしら^m^

それは後編で!
では、よろしくです!

ガンバレ!美那子!

久しぶりに気持ちのいい男だわ。

自分が悪い訳でもないのに、なぜか良くないことをしたみたいに・・・
誰かが背中を押してくれるのを待っているだけではダメだけど、押してくれたなら思い切って前に!

きっと違う自分に出会う。

岩村君、きっと君にも人には言えない辛い事が有ったろうに、それでも明るく振舞える。優しい人なのだろう。

今日サッカーの日本代表の発表があった。
GKの川口の名前が呼ばれた時は、何故か嬉しくて涙が出てきた。彼も年齢的に難しいと思ったし、怪我から復帰したばかりだし。相当嬉しかったと思う。
『ガンバレ!日本!』

やっと追いついた~~^^;

こんばんは!

GW以来、何かと忙しくてやっと追いつきました^^;

大声を出してスタジアムで応援!!!
うちでは時々野球を観に行くけど、本当にスッキリして気持ちが良いです。

初めてのサッカー観戦で思い切って大声を出して応援する美耶子さんに

あぁ~そういえば昔、野球なんて全く興味がなかったのに
タイガースファンのダーに半ば無理矢理甲子園に連れて行かれて、
気がついたら阪神ファンにされてたなぁ~なんて思い出しちゃいました^^;

何でもサッカーに例える岩村君
プロポーズの言葉もサッカーに例えちやったりするのかしら!?

爽やかサッカー青年からどんな素敵な言葉が聴けるのか
後編も楽しみにしています~♪

ポイント高かった?

yonyonさん、こんばんは!

>久しぶりに気持ちのいい男だわ。

あはは……、そう?
それはyonyonさんのポイントにはまったって事だね。
後編でどうなるんだろうか……

>自分が悪い訳でもないのに、
 なぜか良くないことをしたみたいに・・・

言葉だけで判断されますからね。
なかなかその奥まで、話せないし、知ろうとしないし。
岩村との出会いが、美那子を変えたことは確かなのかも。

そう、今日発表だったんだね。
実はあまりサッカーを知らない私。
でも、川口さんの名前は知っている。(親せきは静岡ですから)
決まったからには、頑張って欲しいよね。

わが家も『甲子園派』

パウワウちゃん、こんばんは!
追いついてくれてありがとう!

>うちでは時々野球を観に行くけど、
 本当にスッキリして気持ちが良いです。

そうそう、そうなの。
わが家もどちらかというと、いやかなり『野球』派

>タイガースファンのダーに半ば無理矢理甲子園に連れて行かれて、
 気がついたら阪神ファンにされてたなぁ~なんて思い出しちゃいました^^;

キャー! パウワウちゃん編『甲子園の風』じゃないですか。
そうなんだ、そういうラブラブな二人だったのね(笑)

サッカー小僧の岩村君、
はてさて、どんなお言葉を決めるのでしょう。
爽やかなのかどうか……ちょっと不安だけど(笑)