2 平凡の価値

2 平凡の価値




深見部長に手をつながれたまま、私はマンションの階段を1段ずつ上る。

あぁ、これがバージンロードなら、とっても嬉しいのですが、

それはもちろん無理と言うことで。

扉を開くと、中から現れたのは、そう深見部長の奥様、咲さん。

以前、まだお腹が大きかった頃、

深見部長と仙台支店までいらしたことがありましたよね。

それにしても、たった一文字しか違わないのに、『さ』と『ま』じゃ大きな違いだわ。



「電話で話した芹菜ちゃんだ。悪いけど頼むな」

「はい」



咲さんは姿勢を低くして、私の目を見ながらニッコリと笑ってくれた。

優しい微笑みに、申し訳ない気持ちでいっぱいです。



「芹菜ちゃん。うちには生まれたばっかりの赤ちゃんがいるから、
夜とか泣いちゃったりして、うるさいこともあるかもしれないけど、
ちょっとだけ我慢してね」



いえいえ、そんなことをおっしゃらなくて結構です。

そこらへんにいる出生不明の赤ん坊なら、腹が立つことがあるかもしれませんが、

こちらのお嬢様は深見部長の、なんてったって分身、それを迷惑だなんて……。



「ほら、凛。芹菜ちゃんだよ、遊んでくださいねって」



あ、お嬢様、凛ちゃんでしたね、初めてお目にかかります。

私、深見部長の直属の部下、個人旅行担当の紺田真紀と申します。

このたびは……って、あらまぁ……、写真で見せてもらうよりも、

お目々がパッチリじゃないですか。

なんだろう、そこは奥様似? あ、でも口元は深見部長に似ている。

私、口元にはうるさいんです。いつも見てましたし……。



「なぁ、咲。凛、お腹が空いているみたいだぞ。口が動いてる」

「あ……はいはい。……ちょっとやだ、亮介さん、
口に指を入れるのやめてって言ったでしょ」

「ん?」



深見部長、奥様に怒られてます。あはは……。

仙台支店では、塚田支店長さえも寄せ付けず敵なしなのに、

奥様にはめっぽう弱いんだ。

それにしても目尻が下がっちゃって、本当にかわいいんだって顔してますね。



「芹菜ちゃん、遠慮しないで中にどうぞ」



はい、本当に遠慮なく、お邪魔いたします。

3日間、夢のような環境で、私、頑張らせて……


……じゃなかった。ただいま会議中なんだ。

ここの過ごし方で、この先が決まるんだった。

3日経ったら、もう世の中に戻ってくることさえ、出来ないかもしれない。




『正しい大人が少なくなっているからね』




そうです、そうですとも。ここは私、しっかりと理性を持ち、行動したいと……。



「ねぇ、亮介さん。芹菜ちゃん夕食は食べたのかしら」

「あぁ、それは食べたってコンちゃんのお姉さんが言ってたな。
すぐにお風呂に入れて、寝かせた方がいいんじゃないか?」

「そうね」

「俺、入れようか?」



な、な……今、なんとおっしゃいましたか? 深見部長。

この私と、これからお風呂へ入ると、そうおっしゃいませんでしたか?



「そうね、もう10時になるもの。疲れているはず。今、用意します」

「あぁ……」



どうしよう。

この場合、正しい大人としてはお受けしてよろしいものなのでしょうか。

でも、私が迫ったわけじゃなく、深見部長の方から、

『君とお風呂に入りたい』と、そうおっしゃいましたよね。

いえ、そんなようなことをおっしゃいましたよね。

深見部長と裸のお付き合いをすることになるなんて、私……。



「芹菜ちゃん、ちょっとここに座って待っていて。すぐに準備するから」



座り心地のよいソファーから、ネクタイを外す深見部長が目に入ってくる。

このまま私は、あの腕に抱き締められて、一緒にお風呂へ……お風呂へ……。






ぶくぶくのお風呂へ……






うふふ……。そんなところ、私が洗いますって……。

ジャブジャブ……と……。








いいんです、いいんです、洗剤さえ入れておけば……









ん?









鳥のさえずりが聞こえ、洗濯機が回る音がして、ゆっくり目を開くと、

そこは深見家の和室だった。


そうか、脳内は私だけれど、所詮肉体は5歳児の芹菜のもので、

夜の10時なんて未知なる時間、結局耐えられなかったんだ。


あちゃ……深見部長との裸の付き合いが、飛んじゃったよ!




『正しい大人が少なくなっているからね』




いえ、申し訳ありません、老婆様。ただいまのは単なるジョークとしてお聞き下さい。



私がふすまを開くと、咲さんはおはようと優しい笑顔を見せてくれた。

テーブルの上には、すでに朝食の準備が整っていて、

手伝いもせずに、ぐっすりしてしまって申し訳ないです。

その気持ちだけはなんとか伝えないと。



「おばちゃん、おはよう!」



あぁ……。いくら脳内で考えても、口から飛び出す言葉も、5歳児状態なのか。

こりゃ、あまりしゃべらない方がいいな。


私は、ベビーベッドですやすやと眠っているお嬢様の顔を見た後、席に座り、

美味しい朝ご飯を食べる。



「ねぇ、紺田さんっていくつなの?」

「ん? あぁ、コンちゃんは30」



深見部長、正式には私29です。今年の暮れ12月30日までは20代なのです。

訂正したいけれど、出来ないし。



「そう、30歳で……」



いえ、いえ、咲さん、29です!



「大丈夫だよ、コンちゃんは元気があるし、パワーがある。
なんていったって、みんなを楽しませることは得意だけれど、
泣かせたことなんてないんだから。いつも、辛いことを先頭になってやってくれて、
俺も何度も助けられた。こんなままで終わるわけがない」

「そうよね」



深見部長……。こんなドジで役に立たない私を、そんなふうに見て下さったんですね。

塚田支店長からは、『何かが足りない』といつも言われているのに。

やっぱり私、年齢を誤魔化して、営業成績を誤魔化して、

秘密の書類を改ざんしてでも、横浜転勤、お供させていただきたいです!



「今日はどうするの? 日曜日だけど」

「うん、それはちょっと考えてるんだ」



深見部長はテーブルの上にたたんであった、

新聞の一番最後のページを私の方へ向けた。

テレビ欄の下には、そう、現在公開中の映画の宣伝が、びっしり並んでいる。



「今日は午前中に映画でも見に行って、それで帰りに病院へ寄ってみるよ」

「あぁ、そうね。うちにいても遊ぶものがないし、凛じゃ遊び相手にはならないし。
ただじっとしていると芹菜ちゃんも寂しいだろうし」

「うん……。芹菜ちゃん、これ、見に行こうか」



そう言って深見部長が指差してくれたのは、夏休み子供映画祭り『怪獣ピッチロ』。

私としては、隣にある『あなたと私の限られた1ヶ月』の方が見たいんですけど。

仁絵が言ってたんですよね、この映画。

まじめな上司が、ちょっとしたきっかけで部下との恋に落ちるって……。

周りから責められることもわかっているのに、

あなたとの時間を手放せない……そう言った、主人公が……

やだ、真面目な上司が部下と恋に落ちるだなんて、

あなたと私が恋に落ちるみたいじゃないですか、ね! 部長!



「芹菜ちゃん、『ピッチロ』見て、何か美味しい物、食べようね」



……そうですよね、こんな色気のある映画、ダメですよね。

だって、私、5歳児ですもの、『ピッチロ』ですよね、はい!








なんだろうな、今年は去年より相当暑いんだろうか。

それとも5歳児の身長が、いつもの私に比べてコンクリートに近いから、

跳ね返りで暑いんだろうか。

それとも、あなたと手をつないでいるから、ドキドキして暑いんでしょうか……。




キャッ!




私は深見部長とお出かけし、『怪獣ピッチロ』を楽しんだ。

始めはくだらないと思っていたのに、なぜだかどんどん話にのめり込む。

深見部長が買ってくれた、ピッチロの帽子の形をしたポップコーンは

パンチの効いたチーズ味で、また楽しさを倍増させてくれた。

大音量の効果音の中、お仕事や、迷惑ばかりかける部下の相手でお疲れの部長は、

時々船を漕いでいたけれど、そんな気の抜けた表情を見られただけで、

私は幸せ気分だった。



「深見部長!」

「お……大貫、お前も来てたのか」



映画終了後、2列前の家族連れが席を立ち、すぐに挨拶をしてくれた。

法人担当の大貫さんが、双子を連れている。

横には『ミス仙台』に選ばれたという奥様が立っているが……。



ん? これがミス仙台?



「今日、この後、僕だけ病院に行こうと思っていたんですよ。
昨日、知らせだけ聞いたんですけど、時間も時間だったので」

「あぁ……」

「紺田がしばらく戻れないとなると、深見部長の予定も狂うんじゃないですか? 
秋から横浜にも顔を出さないとならないんだって、そう言われてましたよね」



ありゃ? それは初耳です。だって、正式の異動は1月ですよね。



「坂口専務が気合を入れてくれているみたいなんだ。
自分が入院している間に、すっかり社内が様変わりしているって、ずいぶん怒っていて」

「それはそうですよ。僕も、本社勤務の同期から、色々と噂だけは耳に入ってましたから。
小田切専務も、坂口専務が戻られてからは、おとなしいようですよ。
ほら、塚田支店長が提出した『クライン』の企画書、ものすごく評判がよくて、
社長賞候補に入ったでしょ。その裏に深見部長が絡んでいたことも、
本社でずいぶん噂になったようです」

「大貫、よくそこまで知ってるな」

「企画部の鉾田って言うのが同期なんです。その上司は長谷部さんですから。
アメリカへ飛ぶ前に、全て伝達済みだそうです」



長谷部祥子さん。

北京支社が出来た時の選抜メンバーの一人で、深見部長とは同期の女性。

私は、一度もお会いしたことはないけれど、とにかく頭がよくて、

美人だって聞いたことがある。この夏から、ニューヨークでお仕事らしい。



「まぁ、いろいろあるよ。横浜の準備も大事だけれど、
仙台の最後をちゃんとしていかないと、残されたみんなが大変だ」

「大丈夫ですよ、紺田のことじゃないですか。
あいつが今まで頑張ってくれたことを思えば、残業が増えたって、仕事が増えたって、
文句を言うヤツはいないでしょう」



お……大貫さん……、なんて嬉しい言葉を……。

私がお茶を入れても、言葉なんてかけてくれたことさえなかったから、

もしかしたら嫌われているんじゃないかって、勝手に思っていたんです。

あぁ、目の前にいる奥様は、間違いなく『ミス仙台』、

少し細めの目が、クレオパトラのようです!







映画館のあるビルの中で、深見部長と向かい合ってのランチを済ませる。

ケチャップライスなんて何年ぶり? でも、ちょっと美味しかった。

いちごのゼリーもいい感じだったし、おまけにおもちゃまでもらった私。

あ、深見部長、これ振るとヒューヒュー言いますよ。

お嬢様のガラガラにはならないでしょうか。



「楽しい? 芹菜ちゃん。それならよかった」



あ……そうか、私、芹菜だったんだ。つい、忘れそうになる。



それから少し歩き、私は本当の私がいる病院へ向かった。

姉はそばに座っていて、未だに意識が戻らないことを、話している。

芹菜の立場で見ても、どこも傷がついているようにも見えず、

本当に打ち所が悪かったのだとそう思う。

老婆が言っていた会議は、まだ終わらないのだろうか。



「今日は朝から、仙台支店の方が、何人も来て下さって。
こうしてお花やいただきものが増えちゃいました」

「そうですか」

「これ、太田さんって男性が持ってきて下さって。雑誌なんですよ。
この場に来て、真紀が意識がなかったんだってことに気付いて、
そうだ、読めないんだって……肩を落として」

「あいつらしいな」



何やっているんだか、太田。

意識不明の病人のお見舞いに雑誌だなんて、ちょっと、変……。

あれ? でもこの雑誌、私がいつも買って読んでいるものだ。

あいつ、なんで知っているんだろう……。



「みなさん、真紀にガンバレ、ガンバレって声をかけてくれて。
意識が戻らなくて辛いはずなのに、どこか励まされているんです。
それに、真紀がこんなにみなさんから慕ってもらえているんだって思うと、
それだけでもきっと戻って来てくれるって、そう信じられるから」

「そうですね」



別に仕事が早いわけでもないし、美人でもないから、

カウンターにお客様が並んでくれることもない。

それでも、旅行代理店には学生時代から入りたくて、念願叶って就職できた。

ここのところ変化のない仕事に、どこかおざなりだった自分がいた気がするけれど、

こうしてみんなが私を気にしてくれているんだと思うと、

また雑用でもなんでも、頑張りたいと思えてくる。

仲間がいて、自分がいて、お客様がいて……。


深見部長、残りの時間で、私、まだ教えてもらいたいことがあるんです。

神様……

どうか私を、元に戻して下さい。

立派な大人になれるように、これから、もっともっと頑張りますから!









みんなのあったかい気持ちに触れて、どこかセンチメンタルなまま、

私は深見家へ戻った。

残り2日、私に出来ることといったら、ただ祈ることだけだけれど、

それでも、紺田真紀の人生を続けたいという熱意だけは、

あの雲に向かって送り続けよう。


玄関を開けると、ちょうど凛ちゃんがお風呂に入るところだった。

ついでに芹菜ちゃんも入ったらどうかなと言われ、私はお風呂へ直行する。




……あちゃ、相手は深見部長じゃないのか。

今夜こそと思ったのに、ちょっぴり残念。








『まき』の延命会議終了まで、あと2日








3 希望の行方



さて、真紀は無事、元に戻るのか!
まぁ、そんな緊迫感、ないかぁ(笑)。
パワーの源、1クリックよろしくお願いします (^O^)/

コメント

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やっと、来れたよ^^;

ここのところお盆休みで何かと忙しく
ようやくココに来れました^^;

気になってたリミットspin off♪
真紀ちゃんの心の声にニマニマしながら
とっても楽しく1・2話読ませてもらいましたヨン!

憧れの深見部長宅での三日間♪

手を繋いでの映画デート!?に
一緒にお風呂!?
すっかり真紀ちゃん気分になってた私は
かなりドキドキしてしましまいました(/ー\*)ハズカシィ ♪

今まで気付かなかった
皆のあたたかい気持ちに触れた真紀ちゃん・・
延命会議終了まで後2日・・・
無事元に戻れるように応援していま~す(^^)/




笑ってOK!

yokanさん、こんばんは!

>爆笑で読ませていただきました^0^

ありがとう! 笑ってもらえないと、このspin offの意味がないので(笑)。

真紀になりきってもいいいし、遠くから見つめて笑ってくれてもOKです。
でも、こういったことが出来たら、違った自分を発見出来るだろうなと思ったりもしています。

いや、人がどう思っているのかを知るのは、以外に怖いかなぁ。

忙しい中、ありがとう

パウワウちゃん、こんばんは!

お盆で忙しかったんですね。
迎えるのも、行くのも大変です。
私は、どちらでもないので、のんきなのですが(笑)

>とっても楽しく1・2話読ませてもらいましたヨン!

うわぁ、ありがとう。
本線からずっと読んでくれている人には、
どうなんだろうかと思ったんですけど、
こんなことが出来るのも、『リミット』ならではなので。

真紀気分で、楽しんでください。

(*^_^*)入浴シーン・・・

こんにちは!!

可なり緊迫した状況なのに、コンちゃんは
かなりenjoyしてる?様子。。。。。

後、咲ちゃんには悪いけど、ブチョーと芹菜まきの入浴シーン見たかったかも(*^m^*)
真紀のコーフン度合いが・・・

意外と頼りにされてた真紀ちゃん!
その運命やいかに???

  では、また・・・(^.^)/~~~

風呂場中継?

mamanさん、こんばんは!

>後、咲ちゃんには悪いけど、
 ブチョーと芹菜まきの入浴シーン見たかったかも(*^m^*)
 真紀のコーフン度合いが・・・

あはは……それはダメでしょう。
深見夫婦でさえ、お風呂場の中継はしたことないんです。
あくまでも、深見家の現在をお知らせすることが
このお話のメイン……なはず(笑)

そう、自分を外から見ている真紀、
運命や、いかに! って大げさかな?