2 雨の日の助け人

2 雨の日の助け人


思いがけないところで再会した美夏さんは、不動産屋から出て来た私に、

引っ越しでもするのかと問いかけた。

家を飛び出してきたのだと言おうとして、その言葉が止まる。


「ねぇ、うちさぁ、この近くなんだよ。せっかく会ったんだもの、
少しは子育ての愚痴でも語り合おうよ。すぐに家に戻らないとまずいの?」

「ううん……でもいいの? お邪魔して」

「もっちろん!」


駅から10分ほど歩いた住宅街の中に、美夏さんの実家はあった。

3ヶ月検診の時に聞いた通り、新聞販売店をしているようで、

店の前には何台もバイクや自転車が置いてある。


「ごめんね、狭いけどどうぞ」

「ううん……お邪魔します」


私は店の入り口をくぐろうとして、1枚の紙に目が止まった。

手書きで書いてあるその紙には、『配達員募集』の文字が、

赤いラインで強調されている。その隣には『寮完備』と加えられていた。


「配達って、大変?」

「ん? うーん、慣れたら別にそうでもないでしょうけど、朝は早いし、
夕方もあるでしょ。それに新聞はほとんど毎日だし、雨や雪? 
そういったことを考えると、大変は大変だよね」

「女の人もいるの?」

「いるよ。でも、うちは夕刊の配達だけお願いしてる。
昼間は広告をさばく仕事を一緒にしている人もいるけどね」


美夏さんは謙君を部屋の中に作ったゲージに入れた。

あゆみもそこへ入れると、私から離れるのが嫌だったのか、急に泣き出してしまう。


「あゆみちゃんは初めての子だから、パパもかわいい、かわいいで大変でしょう」


美夏さんはそう言いながら冷蔵庫を開け、飲み物を出してくれた。

謙君は嬉しそうに麦茶を飲むが、あゆみは慣れていないからなのか、

首を振って嫌だと泣き続ける。

私はあゆみを抱きあげ、大丈夫だと何度も背中をさすった。


「ねぇ、美夏さん。お願いがあるんだけど」

「何よ」

「この『配達員』の募集、私じゃダメ?」


美夏さんは、一瞬驚いた顔を見せた。理由も何も話していないのだから、

当たり前だ。それでも彼女はすぐに笑顔を見せてくれる。

その笑顔に、同じ想いをしたこの人なら、きっとわかってくれると、

私は初めて誠一さんのことを話した。





「そう……、そりゃよく我慢したよ」

「もう少ししたら、もう少ししたらって、何度も言いきかせてきたんだけど、
これ以上、自分の気持ちに言いきかせることが出来なくて」

「あったりまえだよそんなの、我慢なんてすることない。
我慢なんかしたらね、男はそれが認めてもらえているって、勘違いするんだ。
もちろん、話し合いは必要だと思うけど、そのためにはあゆみちゃんと二人、
頑張っていける土台を作らないと」

「土台?」

「うん……」


子供の親として、一人の人間として、

上下関係のないフェアな立場で話し合うことが必要だと、

美夏さんはそう言い切った。

ゲージの中に入った謙君はその場にコロンと横になって眠っていて、

私が抱いていたあゆみも、泣き疲れたのかすでに眠っている。

座布団を2枚並べた場所に、ゆっくりとあゆみを寝かし、

美夏さんと一緒にお店へ向かう。


「だいたい、これくらいの量が一人分かな」

「こんなに?」

「うん、でも団地とかマンションとかを配ると、結構あっと言う間にさばけるよ。
ただ、天候が悪いときは、泣きたくなるほど辛いけどさ」


雨の日には、あらかじめ新聞にはビニールがかけられる。

ただ、自転車に乗るには傘を差すわけにはいかず、

レインウエアを着て配るのは相当大変なことだろう。


「女の人には大変だと思う。でもさ、心が満たされないのも大変だよ」


子供に対して愛情を注ぐことがない誠一さんと、

これからも一緒に暮らしていきたいとはもう、思えない。

それならば、たとえ体がきつくても、あゆみと二人、頑張った方がいいはずだ。


「どうする? やってみる?」

「うん……」


私は、美夏さんの好意に甘えて、仕事も住まいも見つけることが出来た。





「ここを出て行く?」

「あなたとこのまま暮らしてはいけない。
ずっと、あゆみに対して、父親になってくれることを待っていたのに」

「父親になるって、僕しか父親はいないだろう。何を言ってるんだ」

「そうじゃない、そうじゃないの」


結局、言い合いをするだけで、互いに歩み寄ることが出来なかった。

私は次の日、誠一さんが会社に向かった間に、荷物をまとめてマンションを出る。

結婚した当初は、カタログを見ながら、この部屋をどう作って行こうかと、

毎日楽しい時間を過ごした。子供が出来たとわかるまでは、

仕事の合間に、私との時間を持ってくれる余裕もあった。



子供が産まれることで、全てが変わってしまった。



いや、子供が産まれることになって、本当のことが見えたのだ。



彼の愛情は……

人ではなく、自分に向けられていただけだった。





以前、美夏さんの販売店で勤めていた人が、田舎に戻ることになり、

冷蔵庫や掃除機は、まだ新しかったため、倉庫に残っていた。

美夏さんのご両親の好意もあって、私はそれを譲り受け、洗濯機だけを購入する。


「ここでいいですか?」

「OK! みんなありがと!」


若い販売員の学生さんが、引っ越しと家具の配置を手伝ってくれた。

その間、あゆみは謙君と一緒に、美夏さんのご両親にお世話になる。


「なんだかねぇ……。こんなにかわいい赤ちゃんを、かわいがれないなんて、
どういうことなんだろうか」

「お母ちゃん、余計なことを言わないの。いいの、いいの。
藍さんはここから新しい人生を始めるんだから。男なんてね、
また現れるものなのよ! 見ていなさいって!」


その日は夕食までお世話になり、私はあゆみと二人で部屋へ戻った。

コンクリートに囲まれ、カーテンを開けると夜景が見えたマンションと違って、

このアパートの窓を開けても、月はおろか星も見えない。

目の前にあるのは隣の家の壁だけで、少し開いた隙間から、

朝の太陽だけが顔を見せてくれる。


それでも、何かに怯えず、空しい心を抱えないだけ、

私の目覚めはいいものだった。





「保育園はどうする? どこか予定してるの?」

「ううん……。本当に何も考えてなかった。どうしよう」

「うーん……」


次の日、私は役所へ向かい、保育園の空きがないかを聞いてみた。

年度途中だったこともあり、空きはもちろんなく、さらに……。


「まだ、離婚したわけじゃないんですね。だとすると、難しいな」


誠一さんの戸籍から外れたわけではないので、色々と制約があり、難しいと言われ、

頭だけ下げて役所を出た。せっかく『配達員』の仕事を見つけても、

住む場所を見つけても、あゆみがそばにいたのでは、仕事もままならない。


「自転車の後ろに、あゆみを乗せてとか、
背中に負ぶってってわけにはいかないよね」

「それはダメだよ、危ないし。
そんなことをしていたら、配り終えるのに何時間かかるか」


美夏さんはそう言うと、両手を組み考えてしまった。

ここまで本当にお世話になり、申し訳なさでいっぱいになる。

認可されていないようなところにあゆみを預けることも出来るが、

それでは収入がいくらあっても、足りなくなってしまう。


「よし! 行こう! ダメもと!」

「どこに?」

「私が謙と守を預けている『たんぽぽ保育園』。園長先生に頼んでみるよ。
あの保育園は駅からも遠くて、古いんだ。
だから、その年によっては定員割れを起こす時もあるって言っていたし、
特別保育って言って、1日単位で預かることもしているから、だから……」


美夏さんに腕をひかれ、私はベビーカーにあゆみを乗せたまま、

『たんぽぽ保育園』へ向かった。

どうかあゆみを引き受けてくださいと祈りながら、道を歩く。


「うちは無理よ」

「園長先生」

「今年は定員ギリギリなの。保育士の数と預かれる子供の数は決まっていて、
それに違反をすると、うちが問題になる。美夏ちゃんの気持ちもわかるけど、
こればっかりは……」


予想通りの答えだった。女が一人で子供を育てていくのは、

そうたやすいことじゃない。あゆみに冷たいところがあっても、

家族を裏切ったりしない誠一さんと、やり直した方がいいのだろうかと、

思いだけが頭をよぎっていく。


「園長先生、助けてよ。私達を助けてくれるのが保育園じゃないか。
文部省だか厚生省だか、お役所のことはわからないけどさ、
母親を助けてくれるのが保育園だって、私はそう思ってきた。
藍さんは頑張ろうとしてるんだよ。それなのに、簡単に諦めなさいなんて、
園長先生らしくない!」


美夏さんも、美夏さんの妹さんも、この『たんぽぽ保育園』で育った。

少し熱があっても、働く母親のために園長先生は子供達を預かり、

病院にも付き添ってくれたという。

子供と向き合い、必死に生きる母親を助けたい。

それがこの『たんぽぽ保育園』を作ったきっかけだと話してくれたことを、

美夏さんは引かずに言い続ける。


「頼むよ、先生。藍さんとあゆみちゃんを助けてよ」

「お願いします!」


私達の粘りは、そこから何日も続いた。

美夏さんは他の先生方にもどうにかならないかと頭を下げ、

そして、ついに園長先生の心を動かしてくれた。





あゆみは『たんぽぽ保育園』に入園することが決まった。





特別枠として、1日単位で預かる子供の名簿にあゆみを入れ、

料金だけは、定期的に預かる子供と、同様の扱いにしてくれる。


しかし、設備の関係と、準備の時間がかかり、あゆみの入園は年明けからとなった。

それまでの1ヶ月は、私が仕事をする間、

美夏さんのお母さんが、預かってくれることになる。





そして、私が初めて『新聞配達』をする日が来た。

しかし、朝から冷たい雨が降り続け、コンディションは最悪だった。


「あいにくの雨か、大丈夫?」

「仕方ないわよ、これからもこんなこと、何度もあるだろうし」

「そうだよね、あゆみちゃんだって頑張るんだもの。藍さんも頑張らないと」

「うん……」


まずは夕刊を50軒分手渡され、それを自転車の前かごと後ろかごに乗せた。

しっかりとフードを被り、コーティングされた地図を前かごに差し込む。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい! 気をつけて!」


お留守番をするあゆみの手を、美夏さんとお母さんが一緒に振ってくれ、

私は初めて町へ出た。最初の区域はマンションで、うちの契約部屋番号を確認し、

集合ポストに入れて行く。


「ご苦労様」

「あ……はい」


年配の女性に声をかけられ、仕事は順調に進んだ。

かごに乗せた新聞が確実に減り続け、残りは1区画になる。しかし……。


「あれ?」


宗田さんというお宅が、どこにあるのかわからなかった。

いや、正確に言えば目の前に見えるのに、そこへ入っていく道が見あたらない。

1本横の道から入れるかと思ったが、そこも奥はなく、

放し飼いにしている犬が、扉の向こうから私に吠えてくる。


「どうしょう、どこに行けばいいんだろう」


もっと町を歩いておけばよかった。

あゆみと出かけるのは公園かスーパーだけで、何もない道など使ったことがない。

時間は確実に過ぎていき、たった1軒の家のために、そこから15分が過ぎる。

一度戻ってお店で確かめるしかないと、諦めようとした時、

1台のタクシーが目の前に止まった。

道幅が狭かったため、私は自転車に乗って横をすり抜けることも出来ず、

タクシーが過ぎ去るのを待つことにする。


「すみません……」

「いえ……」


下りてきたのは若い男性で、タクシーは彼を下ろすとそのまま走り去った。

傘を広げると、雨に濡れた私の方を見て、申し訳なさそうに頭を下げる。


「雨の日に、ご苦労様です」

「あの……」

「はい」


知らない人だった。でも、彼なら答えてくれる、そんな気がした。

私は地図を取り出し、宗田さんへの道を教えて欲しいと訴えた。


「あぁ……宗田さんなら、この3丁目の通りから小さな川沿いにある道を入るんです。
ここからじゃ後ろ姿だけ見えて、奥へ入れないでしょ」


最初に配った場所のすぐそばに、宗田さんの表へ出られる細い道があった。

急いでいた私はその男性に頭を下げただけで、すぐに自転車に乗り

最初の3丁目へ向かう。

ペダルを何度か漕ぎ信号待ちになった時、後ろを振り返ると、

彼の傘が曲がり角の向こうに消えるところだった。





3 あたたかい場所

『ももんたの発芽室』も、2年を迎えます。
これからも、変わらぬお付き合い、お願いします (^O^)/

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コメント

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捨てる神あれば拾う神あり・・・

捨てる神あれば拾う神あり・・・

といっても、捨てたのは彼女だけどね^m^
見切りをつけることも大事、決断は早い方が・・・
でも、離婚問題でもめるんだろうなぁ

そこに現れた謎の人物!
タクシーの若い男は、「涙のあとを」消してくれる人物になるのか!
(あまりにも短絡的な想像だと思いつつ、救いの若い男性の登場を待ちわびる私 笑)

あぁ・・すっかり作者の思うツボ子になってる気がする^^;

明日を待つ!

はじめの一歩

二人のはじめの一歩ですね。
つらい思いをした分だけ、
いい事が待っているといいな。

がんばれ~!

どうにか歩き出した二人。
がんばれ~!
ママの無理は、あゆみちゃんに表れそうですね。

若い男性に私も期待大♪

新しい環境・・

美夏さん家族に助けられながら
何とか始まった二人だけの生活・・・

仕事初日から生憎の天気だけど
あゆみちゃんだって新しい環境で頑張るんだもの
泣き言は言ってられないよね

そうは言っても想像以上に大変な雨の日の新聞配達

↑出会った若い男性に
おおっ!っと思ってしまったのは私だけじゃなかったみたい~^^;


期待大!

困った時はお互い様。助けてもらって、後でちゃんと返していけばいいのよ!

雨にも負けず、風にも、雪にも負けるな!
もちろん誠一にも!!!!
頑張れ!

おっと現れました。超期待は私も同じyon!

雨の日の彼は……

なでしこちゃん、こんばんは!

>見切りをつけることも大事、決断は早い方が・・・
 でも、離婚問題でもめるんだろうなぁ

あはは……さすが、先を読むねぇ。
予想通り揉めるのか、それとも……は、
もちろん続きで。

>タクシーの若い男は、
 「涙のあとを」消してくれる人物になるのか!

なるのか! 彼の正体は、3話でわかります。

幸せへ向かって!

ヒャンスさん、こんばんは!

>つらい思いをした分だけ、
 いい事が待っているといいな。

うん、うん、辛いまま終了! は悲しいです。
藍とあゆみ、どんな道を見つけるのか、
それはまだまだこの先ですけど。

若い男性は……

れいもんさん、こんばんは!

>ママの無理は、あゆみちゃんに表れそうですね。

子供って、大人が思っている以上に、
色々と感じ、理解しているんだよね。
あゆみの色々な面も、これから出てきます。

>若い男性に私も期待大♪

はい、彼に関しては3話で正体がわかります。

美夏の力!

パウワウちゃん、こんばんは!

>美夏さん家族に助けられながら
 何とか始まった二人だけの生活・・・

美夏のおかげで、藍は勇気を出しました。
同じく子供を抱えるママ。
彼女はこれからも、藍を励まし続けます。

藍が雨の日、出会った男性。
彼の正体は3話でわかりますよ。

藍の理解者

yokanさん、こんばんは!

>美夏さんは天使だった~、いや神様だった~^^

はい、美夏はこれからも藍とあゆみを
支えてくれることになります。
物怖じしない性格で、パンパン言ってくれますよ(笑)

>藍さんが出て行ったことを知ったとき、
 どういう反応をしたんだろう・・・

誠一君の日々、については、また後日、
わかりますので、少々お待ちを。

美夏さん家族

yonyonさん、さらにこんばんは!

>困った時はお互い様。助けてもらって、
 後でちゃんと返していけばいいのよ!

そうそう。この先も美夏さんの家には、
とってもお世話になる藍とあゆみです。

頑張ることを決めた二人。
そして、雨に現れた男。

彼については、3話で正体がわかりますよ。