4 ナオ先生、争奪戦

4 ナオ先生、争奪戦


私が帰る道の真ん中に姿を見せたのは誠一さんだった。

まっすぐにこちらへ歩いてくると、誠一さんの目はナオ先生から離れなくなる。


「君は、誰だ」

「誠一さん、この人は……」

「『たんぽぽ保育園』の保育士をしています、星野那央と言います。今日は……」

「あゆみの父です、お世話になっています」


あゆみは久しぶりに見る誠一さんの顔を、横目でチラリと見たが、

すぐに下を向いた。怒られた記憶が、蘇っているのだろうか。


「君のアパートへ行ったら誰もいなくて。そうしたら男の人が隣に戻ってきたんだ。
店のことを聞いてそこへ行ったら、『たんぽぽ保育園』だと言われた」

「今日は、園長先生と面接があったから」

「行こう」


誠一さんはそういうと、ナオ先生に一度頭を軽く下げた。

ナオ先生はあゆみとつないでいた手を離し、クマが入った袋を私に差し出すと、

軽く手を振ってくれる。


「あゆみちゃん、また明日」

「うん……」


あゆみの空いた左手を、誠一さんがつかむことはなく、

私たちの前をただまっすぐに歩いていく。

私が後ろを振り返ると、ナオ先生は真剣な表情のまま、

まだその場所から動かずに立っていた。

私はもう一度頭を下げ、先を行く誠一さんの後を追った。





小さな台所と、小さなお風呂とトイレ。そして6畳ほどの和室と押入れ。

それが今の私の全てだった。誠一さんは部屋の中を隅々まで見て回り、

そして今日のために作っておいたカレーライスを一緒に食べた。


「いい加減に戻ってきなさい」


別れる覚悟を決めてくれたのかと、心のどこかで期待していたが、

誠一さんの言葉は、それとは全く逆のものだった。


「確かに、あゆみが産まれてからの僕の態度が、間違っていなかったとは
言い切れない。ただ、あの当時はライバル達との争いがピークだったんだ。
出世のためには誰にも邪魔されたくなかったし、研究の成果が出なければ、
僕がどんなポジションに追い込まれるかくらい、同じ会社にいた藍なら
わかってくれると思っていた」


それはわかっていた。誠一さんは部署1番のエリートで、

そんな彼の出世に期待をしていた自分も確かに存在した。

彼と交際をすることになり、結婚が決まった時、その報告をする自分が誇らしく、

また、優越感にも浸っていた気がする。


「プロジェクトが先月で終了した。幸いプログラムでもミスはなかったし、
これから少しは時間にも余裕が出来る。女が一人で子供を育てるのは大変だ。
戻って来い……。今ならやり直せるんじゃないか」


今までほとんど連絡をしてこなかったのは、やはり仕事のことが絡んでいた。

あゆみがそばにいない方が、彼にとって都合がよかったのだろう。

落ち着いて考えてみた時、私達がいないことに気づき、

ここへ来る気持ちになったのだろうか。

あゆみは疲れてしまったのかそばで眠っていて、

私はテーブルを片付けると、布団を敷き、あゆみを寝かせる。


「あのね、誠一さん……」


私達が辛いのは、お金がないからとか、部屋が狭いからだとかそんなことではない。

もう一度だけちゃんと説明をして、話し合おうとしたのに、

誠一さんは私の腕をつかみ、自分の方へ引き寄せた。

すぐに唇が重なり、私の体は畳の方へ押し倒される。


「誠一さん……」

「藍……僕には君だけなんだ」

「ねぇ、ちょっと、話が……」


私の言葉など興味がないというのか、彼はどんどん人のエリアへ入ろうとする。

そこに気持ちなど存在せずに、まるで獲物を見つけた動物のように、

守ろうとする場所へ手を伸ばしていく。


「い……いや……」

「嫌じゃないだろう。僕らは夫婦なんだ」


体の中を流れる血が、逆流するのかと思うほど、私に震えが走った。

以前、そうまだ何年も前ではない。

この人に体を預け、幸せな気持ちで全てを受け入れた日々、

それが汚らわしいことのように思えてくる。


「やめて……」

「うるさい!」


私が逆らおうとすればするほど、誠一さんの力は強くなり、

左腕は今にも首を絞めそうな勢いだった。




彼は、私たちとやり直したいわけではなく、

ただ、男としての感情をぶつけているだけだった。

欲しいものを手に入れるため、ただ、ここへ来ただけ……。




むなしさの余り涙があふれ、私の体から力が抜けそうになった時、

後ろからあゆみの鳴き声が響いた。


「ダメ! ママ、ダメ!」


あゆみの声に誠一さんの動きが止まり、私はその手から逃れるために必死に動いた。

乱れた髪を軽く整え、大丈夫だとむりやり笑ってみせる。


「ママ……」


誠一さんは黙ったまま反対側の壁に寄りかかった。もう、迷うことなどない。

私はこの人の元へは二度と帰らないと、あゆみの手を握りながら、

そう気持ちを決める。


「あの男と……デキてるのか」

「誰のこと?」

「さっき、会っただろ」

「何言ってるの、あの人は保育園の先生だってそう言ったでしょ」

「そんなこと、わかるものか!」


男の醜い嫉妬に、次の瞬間、私は出て行ってと彼に叫んでいた。

誠一さんは荷物をつかむと、私を睨みつける。


「絶対に別れないからな。お前の好きなようにはさせない」


それだけを言い残し、誠一さんは部屋を出て行った。

薄いアパートの壁だ、隣の人にやり取りが聞こえたかもしれない。

それでも、それを恥ずかしいと思う余裕すら、今の私にはなかった。

彼と過ごしてきた何年かの時間が、全てなくなってしまえばいいのにと、

あふれる涙をぬぐいながら、

泣き顔をあゆみに見せたくなくて部屋の灯りを消した。





季節は春になり、あゆみは『たんぽぽ保育園』に正式入園となった。

クラスは3歳児から5歳児までが混合になった『つばめ』組で、

担任は星野那央さん、ナオ先生が務めてくれることになる。


「今日から、みんなと一緒に『つばめ』組です、よろしくお願いします!」


子供たちの笑い声と、美夏さんをはじめとした販売店の仲間達との会話が、

今の私の支えだった。





「離婚調停ですか」

「はい、お恥ずかしい話なのですが、私たちだけではどうにもならなくて。
申し込まないとと思っているんです」

「いえ……」


新年度が始まってすぐに、個人面談があり、私はナオ先生に全てを語った。

ナオ先生は真剣な表情で私の話を聞き、そして小さく何度も頷いてくれる。


「僕でお役に立つことなら、お手伝いしますから」

「いえ……。ナオ先生には本当にお世話になっています。
あゆみもおかげさまで、元気に通えてますし」

「あゆみちゃんは明るいですよ。守君が一緒なのも大きいでしょうけど」

「はい」


美夏さんの長男、年長の守君が同じ『つばめ』組だったため、

あゆみが誰かとケンカをしそうになると、

助けに入ってくれるのだとナオ先生は説明してくれた。





誠一さんとの離婚が調停へ進むことになり、

実家の母にも知らせないわけにはいかなくなった。

私たちの暮らしぶりを心配し、アパートへ顔を出してくれる。


「まさか、誠一さんがそんな人だったなんて。
真面目でしっかりしていると思っていたけど」

「うん……。彼もきっと自分自身に驚いているんじゃないかな。
きっと、子供を好きじゃないんだと思う。父親には向かない人なのよ」

「大丈夫なの? 藍。一人で」


質素な生活ぶりに、母は涙が出てくると言い、ハンカチで目頭をぬぐう。

流しのふちに触れる手が、自然に震えだした。

私はその手をしっかりと握り、大丈夫だからとさすってあげる。


「お母さん、私ね、マンションで誠一さんと暮らしていたときより、
今のほうが何倍も気持ちがあったかいのよ。
ここの皆さんも、保育園の先生たちも、本当に助けてくれるの。だから大丈夫」

「うん……」

「私の方こそ、お母さんの役に立てずにごめんね」


母は、作ってきた煮物を置き、昼過ぎに家へ戻った。

私はすぐに店へ向かい、自分の分を自転車に乗せるとリズムよく配達を済ませる。

そして、保育園に向かうと、あゆみはまた、ナオ先生と画用紙に向かっていた。


「すみません、ありがとうございました」

「あ……ママだ」


あゆみはすぐに立ち上がり、自分の荷物を取りにロッカーへ向かった。

だんだんとルールにも慣れ、たくましくなっていく我が子の姿が、

嬉しくもあるが、寂しくも感じてしまう。


「あの……岸谷さん。来週の『たんぽぽスポーツ祭り』なんですが。
僕が加わります」


6月の始め、保育園では『たんぽぽスポーツ祭り』が開かれる。

午前中だけの小さな運動会だが、あゆみにしてみたら、

保育園に入って初めての大きな行事であり、私も参加するつもりでいた。


「『つばめ』組の7人は、みんなお母さんの他に、
お父さんかお爺ちゃんが競技に出るんです。
あゆみちゃんには岸谷さんと岡本さんが参加すると伺ってましたが、
それだと岡本さんが守君のに出て、
そのまま、またあゆみちゃんのにも出ないとならなくなるので。
だから、岸谷さんさえよかったら、棒の反対側を僕が持とうかと思いまして」


父親や祖父母の参加がないあゆみは、

私以外に競技に参加してくれる人が見つからず、

美夏さんが守君の番を終え、そのままあゆみのにも出てくれると約束していた。

しかし、それでは同じ競技に2度も走ることになるからと、

ナオ先生が私のパートナーを名乗り出てくれたのだ。





その話を店に戻って美夏さんに告げると、それはよかったと喜んでくれる。


「いいのかしら、ナオ先生があゆみの競技に出てしまって」

「いいじゃないの、だって『つばめ』組なんだもの。
あとのみんなはちゃんとペアが組めてるんだし、
それに子供の入ったカゴを向こうに運ぶだけだよ」

「そう……だよね」


ナオ先生の申し出に、素直に甘えたほうがいいと言われ、

私はその提案を受け入れることにした。

しかし、その話はとんでもない方向へ火種を飛ばしてしまう。





「岸谷さん、ナオ先生に頼んだってどういうこと?」

「頼んだわけじゃないんです。先生が引き受けてくださって」

「あら……、ナオ先生が喜んで立候補したとでも言いたいの?」


ナオ先生があゆみを運ぶことになったことを知った、

他の『つばめ』組のお母さんと、今年、保育園の母役員長をしている堀田さんが、

子供を送り終えた私と、美夏さんの前に立ちはだかった。


「あんたたちさぁ……なんていう心の狭さだよ!」

「美夏さん」

「保育園の仲間じゃないか。困っている人を助けてあげて、どこが悪いんだ。
それぞれ家には事情があるの。それを知ったナオ先生が、
手伝うのがどこがおかしいのよ」

「ナオ先生は、担任でしょ。一人のお子さんに肩入れするのはねぇ……」

「何!」

「美夏さん」


小さな保育園の、小さな『つばめ』組は、

こんな出来事から、バラバラになりそうになった。





5 涙のドライブスルー

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コメント

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二人の男

誠一さん、やり直したいんじゃなくて体裁を整えたいのね。
エリートが離婚、出世に響くってか?(コラッ!)

そしてお決まりの疑って、嫉妬して・・・

調停ね~上手くいくといいけど。

ナオ先生争奪戦、そりゃ起こるでしょう。
でもナオ先生の中に何か違う思いが?

醜い嫉妬です

yokanさん、こんばんは!

>男の嫉妬だね~(ーー;)

はい、自分の行動は振り返ることなく、
ただ、取られるのは嫌! という、
いたって子供な誠一です。

ママさん軍団も、誠一も、
『あぁ、あるよね』とか『いるよね』と
思ってもらえたら、書いている私としては、
ほっとします。
リアル感がないとね、成り立たないので(笑)

やり直す意味

yonyonさん、こんばんは!

>誠一さん、やり直したいんじゃなくて体裁を整えたいのね。

いやいや、誠一にとっては、
それでも『やり直す』だと思っているんですよ。
ようは、藍の出て行った理由が
わかってないんですね。

さて、ナオ先生のことについては、
さらに続きます。

それぞれの言い分だね

誠一が別れたくない理由は、藍が必要だったから

藍が誠一に惹かれたのは、彼がいいと思ったから

二人とも、結婚にいたる理由があったから夫婦になったのよね

でも、理想と現実は違った・・・

すれ違った思いは平行線のままなのでしょうか。


ママたちの言い分も、彼女たちの「自分の常識」があるから言うんだよね。

誰の言い分が正しいのかなんて、誰にも決められないけど、自分と同じ感覚の人と寄り添っていくのが楽なのよね~・・・

藍さん、どんな人生を選択するのかな。

それぞれ

なでしこちゃん、さらにどうも。

>二人とも、結婚にいたる
 理由があったから夫婦になったのよね

男の人の変わる瞬間って、何度かあると
何かで読んだ気がするんだよね。
まずは、結婚してすぐ
(付き合いと結婚は別)
そして、子供が産まれた時
(男は自然には父親になれないらしい)
誠一は、その典型でしょう。

自分でも、こうなるとは思っていなかったけれど、
天秤にかけると、仕事の方が勝ってしまう。

保育園ママ達、
そう、価値観の違いは大きいよ。
さて、藍はどうなるのか、
それはまだまだ先へ……